スナヅツの底



 砂の中に埋もれる首長翼竜の骨を思い出した。それは巨大で、全体像は誰も知らないと言われている。頭を遥か底に向けて埋もれている首長翼竜について、どうしてそんな状況になったか誰もが知りたがっていた。
 少なくとも僕は、あまりいい気分じゃないんだろうなと思っていた。口の中に残る砂をまた吐き出す。実際、いい気分ではなかった。僕は埋もれてはいなかったけど砂の上に倒れていた。空を飛んでいる最中に落ちて砂の上にいたのだから、首長翼竜と状況は一緒かもしれない。
 腰紐に挟んでいた紐で出来た人形を取り出す。服や体の色は褪せ、おまけにくたくただった。ママが作ってくれたもので、幼い頃から変わっていない一本結びの髪が僕とお揃いだ。
 僕は幼い頃からこの人形へ祈っていた。それは生活の一部で、寝る前に明日いいことが起こるようにだったり、元気のない友人が元気になるようにだったり、自分が強く何かを感じた時に人形へ声をかけていた。
 そしてそれは今も同じだった。
 砂の上に人形を座らせる。くたっと首が右に傾いた。どこか疲れているようにも見える。
「僕も疲れているよ」
 全身痛いが特に右足が痛かった。落ちた時に打ったらしい。うまく動かせない。
 空へ浮かぶにも、足が上手く使えなければ着地が出来ない。今度は右足だけじゃなく左足も同じように動かなくなってしまう。
 助けを呼ばなければいけなかった。周りにはなにもないし、僕に頼れるのはこの人形以外なかった。
 両手を合わせた。自分の心に浮かんだ言葉をそのまま伝える。いつも通りでいい。目を瞑る。その方が人形に祈りが通じる気がした。
「誰かが、助けに来ますように」
 風が通り過ぎる。砂を含んだ風は頬に荒く当たってくる。けれど祈る手は開かない。目も開けない。じっと祈る。
 しばらくして目を開いた。ふう、と力が抜ける。起きているのも辛く、僕は砂の上に寝転んだ。
 頭上は煙でいっぱいだった。一面紺色の光景が広がると物資隊から聞いていたけれど、実際はどうやら違うみたいだ。見たことのない光景を想像していただけに僕は少し残念だった。煙でいっぱいの景色なら、テントの中で温かい湯を作れば一発だ。
 けれど、開けている視界というのは気分が良かった。いつも見上げる景色はテントか翼傘だけだったので、この煙だらけの景色も想像とは違うけれど新鮮ではあった。
 首長翼竜は空を飛べたという。だったら、地上からの景色は見たことなかったのかなとふと思った。
 子供の頃、よく首長翼竜がどうして砂の底へ向かったのか話し合っていた。
 何かを探しに行った、というのが僕らの中で決まっていて、その何かというのをみんなで考えていた。
 宝物。
 美味しいもの。
 どこかの入り口。
 結局、その答えはわかっていない。けれど今でもたまに考える。首長翼竜は何故、スナヅツの底へ向かったのか。
 その時、脳裏に閃くものがあった。スナヅツにいては出来ない、今ここでだったら出来ることがあった。
 僕は再び目を瞑る。寝られない時にやるみたいに、意識を少しずつ少しずつ沈ませていく。自分の体がズレるような感覚。このまま沈んでいけば、もしかしたら底が見えるかもしれない。
 いや、どんだけ時間かかるんだ。
 冷静な自分の声で意識が体へ戻ってきた。それもそうだ、と僕はため息をついた。
 ふと、なにかさっきと違うような気がした。地面が小刻みに揺れている。僕の胸の高鳴りで地面が動いているのかと思ったけど、どうやら違うみたいだった。その揺れは少しずつ大きくなっている。
 なんだろう、と目を閉じて近づいてくる揺れに集中する。揺れと合わせて音も聞こえる。ガラガラガラ、と絶え間なく転がるような音がこっちへ向かってきているようだ。僕は無理矢理に上半身を起こす。音の方を見れば、僕の背よりも大きな、見たこともないものがぎぎぃという音とともに止まった。
 驚いていると中から人が出てくる。砂煙で上手く見えない。目を凝らすと、ほっそりとした影がこっちへ向かってきていた。
「大丈夫ですか」落ち着いた声だ。男の人の声にしては高く、女の人の声にしては低すぎる声だった。
 僕は大きく首を横に振った。
 砂煙から姿が現れる。白いポンチョのような服と痩けた頬。その後、切れ長の目とポンチョより暗い白髪に目が行く。その人は僕の前に現れると、真っ先に僕の足を見た。
「助けましょう。その代わり」手を差し出される。人のことは言えないけど、引っ張ってもらうには少し心細い腕だった。「あなたの話を聞かせてください」
「……例えば?」
「あなたの夢とか」


 僕はどんな夢があるか、と問われ「首長翼竜になりたい」と答えた。長は苦笑を浮かべ額から粒みたいな汗が浮き出た。
「君でそれ七回目だよ……」
 長の部屋は暑い。来てからそんなに時間は経ってはいないけど、じんわりと汗ばんできた。階層が違うだけで随分と空気が変わるんだなあ、と思った。砂の香りも心なしか熱っぽい。昔と変わっていないことに僕は少し嬉しくなった。
「じゃあ、労働のことは考えなくていいよ」長はそう言って前に身を乗り出した。ふくよかな長との距離が急に縮んだように感じ、僕は少し後ずさった。「やりたいことはないの?」
 僕らスナヅツに住んでいる人間は十五になると労働を始めなければいけない。それについての希望を今、長と話し合っていた。
 幾つかの決まった労働があるわけではなく、本人の希望によってやりたいことを決められる。掃除がしたい、郵便を届けたい、などなどその労働の種類はそれぞれだ。それに対して長が決めることはなかった。だからか、スナヅツで労働をしている人はみんな楽しそうに見えた。
 僕はぼんやりと考えるため、長の部屋の天井を見る。つぎはぎ造りのテントは家のものとそう大差はない。みんなは長が僕らに内緒で贅沢をしているんじゃないかと疑っているんだけど、この部屋に来てみるとキレイなものや珍しいものはなく、考えすぎだと再確認する。
 狭っ苦しいテントには首長翼竜の本が目立つようにあった。片手で持てないくらいの厚みのものが棚に所狭しと並んでいる。掃除してから二日三日経つと砂がくっついてくるはずなのに、やけにその棚だけがキレイだった。おまけに長の椅子の後ろにあるものだから嫌でも目に入った。ちらと僕はその椅子の側にある色褪せたソファを見た。
「なにかないのかな」長は微笑みながらそう言う。おそらく催促しているんだろう。なにもないとは言えない。ちょっと前から考えておくように言われていた。
 なんとか浮かばないものか。自分の考える力の無さに呆れる。長と視線を合わせないためにも再び天井に目を向ける。
 みんなはどんなものを選んだんだろう。来る前に聞いておけばよかったと思ったけど、そもそもしばらく話をしていなかった。きまずいことこの上ない。
 天井の異なる布たちをじっと見つめる。模様があったりなかったり、黄色だったり青色だったり色々な、手のひらくらいの布が肩を組んでこのテントを作り上げていた。
 ぼんやりと景色が脳裏に浮かぶ。道の上、肩を組んで笑い合う僕ら。
「柵を置きたいです」
 自然とそう声に出ていた。


 目の前の布へ、腰紐についているリングを通す。きちんと紐が通ったことを確認するとそのまま僕は跳んだ。
 風を切って落ちていく。進んでいくごとに涼しさが増して心地いい。違う階層に行くのは久しぶりだったので、本来の暑さというのを思い知らされた。十四階層は下の階層ということもあり涼しく過ごしやすい。
 十三階層から落ちる時間が長くて思わず下を見る。もう少し先、あと十秒くらいだろうか。
 ふとぬるい風が僕の頬をかすめた。僕はつい真下、ここがスナヅツと呼ばれているわけに目を向けた。
 真っ暗で見えない底に骨が飲み込まれている。僕らが足場にしているこの骨よりも大きなものがあるということに、背筋がぞくりとした。
 普段、このスナヅツに住んでいる人らは階層を行き来しない。各階に布紐がくくりつけられていて、一応上り下り出来るようにはなっている。けど、違う階層には他の人の住むテントしかないからその人へ用がない限りは行かない。
 僕はこの穴が怖かった。もし落ちてしまったらということが頭をよぎってしまうのだ。みんなは平気だ、と言うのが僕にはわからなかった。だから降りる時は下を見ない。
 服の袖で頬に残っているぬるい風を拭く。たまに下から吹いているこの風はあの穴の奥から吹いてきているものと言われている。光が一切ない、底が見えない、たまにぬるい風が吹いてくる。――不気味だった。また背筋がぞくっとした。
 着地までもうすぐを示す赤い布の目印だ。少しずつ布を持つ手に力を込める。布にくっついている砂で、手を滑らせていく。風を切るスピードが遅くなっていっているのを頬で感じた。もうすぐで足がつきそうというところでぐっと力を込め、止まった。骨の道へ向かい、ゆっくりと着地する。着地して遠くない所に布の袋があるので、僕は忘れないうちに羽根をその袋へ入れた。
 今の羽根は僕が上へ昇る時に使ったものだ。各階に置いてあるもので二、三振るとそのまま体が浮かんで空を飛べるようになる。帰りもこの羽根を使えばよいのだけど、どうやらこれは消耗品のようで、帰りは今の布紐を使わないといけない。
 この羽根は首長翼竜のものだと言われている。果たしてそれが本当かどうかは知らない。けど僕らが今、首長翼竜の骨の上で暮らせていることを考えるとあながち本当なのかもしれない。ずっと昔、ここがスナヅツと呼ばれる頃からあるみたいで、どうやって手に入ったかは誰も知らない。
 ここがスナヅツと呼ばれているのはその名の通り『砂の筒』だからだ。砂漠にある日突然、ぽっかりと筒のような穴が空いた。その穴の中には巨大な生き物の骨が突き刺さっており、ここを危険な場所としてスナヅツと呼ぶようになった。
 この生き物の骨は首長翼竜の骨と言われている。といっても誰かが首長翼竜が埋まっているところを見たわけでもない。ただこんなに大きな生き物の骨から連想されるものが首長翼竜しかなかったからだ。一人、首長翼竜を見たと言いはる人がいた。三百年前、ここに住み始めた当初の長だった。
 その人が言うには飛んでいる首長翼竜を見たことがあるようで、この生き物が首長翼竜であると断言していたらしい。
 その話が本当か今はわからない。僕らが住んでいるのはしっぽ部分の骨に過ぎず、頭や翼は遥か下に埋まっている。
 僕は骨の道をゆっくり歩いてテントへ帰っていく。砂をまとった骨の道はざらざらと少し滑る。欠けている所やつまずきそうな穴の空いた場所もあるので歩く時は気をつけなければいけなかった。階層ごとに右区画と左区画があり、僕のテントは右区画だった。真ん中の太い骨から左右に半円形の骨が生えていて、その太い骨を背に右が右区画、左が左区画になっている。特に右と左でなにか違いはない。
 区画ごとにテントは三つあった。ただテントがあるからと言って今もまだ人が住んでいるというわけじゃない。スナヅツではテントに住んでいた人がいなくなってもそのテントを壊したりはしなかった。骨だけになっても存在している首長翼竜のように、そこにその人達がいたということが思い出せるようにしているからと幼い頃に長から聞いた。
さっきのことを思い出す。結局、柵の話はすぐに頷いてもらえなかった。柵がない状態で骨の上を歩くのは下に落ちてしまうから危険で、首長翼竜の骨はあくまで僕らの暮らしの土台になっているからあまりいじりたくないということだった。長の言い分もわかった。首長翼竜の骨は絶対に崩れないわけじゃない。このスナヅツに人が住み始めてから三百年ほど経つらしいけど、今はあくまでもたまたま崩れていないだけだ。それに多少の欠けはたまにある。
 となると僕は新しく労働を考えないといけない。困ったなあ、とぼそっと口に出す。だったら長から「これをやってほしい」と言われた方が楽だ。
 立ち止まって上を見上げた。夜に向かうにつれ、スナヅツの中も暗くなってきた。ここは外に比べるとずうっと暗いらしい。僕らは外に出ないからわからないけど、長は外から色々なものを取り寄せるから外の様子を知っているようだ。僕自身、長と喋る機会はもうあんまりないけれど、長と喋った人が他の人へ、その人がまた他の人へ話していくから長と話さなくても知ることが出来た。
 貨物隊の口は特に軽く、食料などを届けてくれるときにはもれなく一緒に噂話や外のことを教えてくれる。他の人と喋らない僕にとっては有り難い情報源だった。
 辺りが暗くなり、翼傘もここからだと見えなくなってしまう。徐々にテント前に釣られている蓄光石がぼわっと光り始めた。もうすぐ夜になる。足元が見えにくくなるのでそろそろ歩こうと思った。
 上に比べれば涼しいとは言っても暑さはある。僕は額にじんわりと浮かんだ汗を拭う。立ち止まっていると、チチチとスナカミムシの音が聞こえた。この音は鳴き声じゃなく、スナカミムシが砂を食べている時に出る音らしい。
 暑さを振り払うように首を動かして見上げると、視界の端に白色がちらりと映った。気になって視線を下げずにそこを見る。
 ゆらゆらと、蓄光石の灯りみたいにその白色は揺らめく。てっきり光だと思っていたけれどもどうやらなにかのモノらしい。少しずつ下の方に落ちてくる。見ていると時折その揺れが激しくなる。湯気みたいだ、とぼんやり思う。
 しばらくその動きを見ていると、この十四階層の右区画をその白色は通っていきそうだった。近づいてくるにつれわかってきたが、どうやらその白色はぺらぺらとしたものだった。何かの紙だろうか。
 頑張れば取れる、そう思った。もうすぐで十三階層を過ぎようとしている白色から目を離し、早足で落ちてきそうな場所へ向かう。もちろん、足元を見ることは怠らない。薄暗くなってきた周囲に白色の骨がぼんやり道を示す。
 自分のテントを抜ける。散らかる足元など気にせず裏口から出ていく。ここを開けるのなんていつぶりだろうか。ふわっと砂煙が舞うのがわかった。
 白色は僕を誘うかのようにゆらゆらゆっくりと落ちていく。多分、次のテントを抜けた先で掴めると思う。僕はテントへ向かう。
 入り口を開けようとして少しとまどう。このテントには誰も住んでいない。奥のテントもそうだ。十四階層の右区画に住んでいるのは僕だけだった。
 僕は誰かが住んでいたテントへ今、勝手に入ろうとしている。それも珍しい落下物のために。開けようと伸ばした手が固まる。
 テントを避けるように外を歩くことも出来るけど、道の端を進むことになる。一歩間違えば下に落ちてしまう。それだけは選びたくない。
 見上げて、揺れる紙を見る。もうすぐのところまで来ている。時間はあまりない。
 普段家から出ずにぼうっとしている僕がここまで熱心にモノを追うのは理由があった。上から落ちてきたものを拾うと幸せになれると、そんな話を昔聞いたのだ。
 あの時はどうしてそんな話になったんだっけか、と考えるが思い出せない。記憶の砂の中を探していくが欲しいものは出てこない。熱い砂を手で掘るのは辛い。掻き出すように探していく。しかし代わりに求めていない他の思い出ばかりが出てくる。それを拾っては捨て、拾っては捨てをする。
 掘っていると微かに声が聞こえた。ここだ、と僕はそこを掘り続ける。すると突然、指の感覚が消えてぼやけた思い出が見えた。聞き覚えのある声がした。
「もし上から落ちてきたのを取ったらさ、二人でお願いしようぜ――」
 遥か昔の約束を思い出す。僕らしか知らない――けど幼い僕らは確かにこのスナヅツで約束をした。
 気づけば手が動いていた。テントの入口を開ける。舞う砂埃、他人の家の匂い、遺された思い出。この先に行きたい、という気持ちに反し足は動かない。
 テントの中の床が見える。ペンや服など、生活の跡がそのままだ。今はたまたまこのテントの人がいないだけなのだ。
 脳裏をよぎるのは、このテントから出てくる長の光景だった。
「動かないらしい」そう言って長は目をぎゅむりとつむった。中から医師が出てきて、それを合図に郵便隊が四人テントの中へ入る。程なくして四人はぐったりとした老人を担いで出てきた。
「いってらっしゃいませ」長がそう言うと、道の端で四人は上半身を折った。担がれている老人は滑るみたいに緩やかに落ちていく。僕はそれを見ることが出来なくて、ぐっと目を閉じた。
 動かなくなってしまった人は首長翼竜の頭へ届けられる。首長翼竜が砂の底を目指したのにはきっと意味がある。そこになにがあったかを知ってほしいから、と聞いた。老人は首長翼竜の目指した先へ向かったのだ。
 ぬるい風が頬をなめるように吹き上げてきた。テントに入れずにいる今に戻される。
 強ばる足、汗ばんだ手。入りたい、という気持ちとは別でどこか遠い所で入れないという気持ちがぽつりといる。次第にそれは強くなっていき、気づけば一つ、二つと後ずさっていた。
 ごめん、やっぱり無理だ。約束をしたあの少年に言う。目の前のテントはなにかを閉じ込めているようだ。僕はその中を通り切ることがどうしてもできなさそうなのだ。
 僕は見上げる。あの白色はどこに行ったんだろうか。この階層を抜け、首長翼竜の頭へ向かっていくんだろうか。
 目の前の光景に、諦めかけている僕は驚いた。紙はこっちに向かってきていた。思わず手を伸ばす。距離が掴めず、精一杯伸ばした先に紙はあった。揺らめくそれを手に取ろうと前後左右で合わせる。テントの奥に落ちるはずだったのに、今こうして僕の目の前に落ちようとしている。
 僕がゆらゆら動くたびに紙もゆらゆらとぶれる。二、三度繰り返し、なんとか指先で挟むことが出来た。思ったよりも重量感がある。布と紙の間だ。
 ふう、と一息つく。動き回っていたからじゃない。目の前に上からの落下物――僕らはシズクと呼んでいた――があるからだ。外で誰かに買われたものを手にすることはあるけど、自分で手にするのは初めてだ。暗がりと緊張でよく見えない。震える足で自分のテントへ戻った。
 シズクは一旦足元に置き明かりをつける準備を行う。金属製の受け皿に布が乗っていて、それに瓶の中の火付粉でもって火をつけていく。けど、焦っているせいでうまく瓶が開かない。手が震えるせいで何度か瓶を落としそうになってしまう。これを落としてしまったらとんでもなく強い勢いの火が出て大変なことになる。
 僕は大きく息を吐いて、ひとまず火をつけることへ集中した。これが出来ないとシズクを見られないのだ。落ち着いて瓶の蓋を開ける。ここからは急がないといけない。親指と人差指で軽く粉をつまんで受け皿の布へぱらっとかける。そしてすぐに蓋を締める。
 ふうっ、と火付粉に触れるか触れないかくらいの息を吹きかける。橙色の光がふわっと舞う。光が布へ落ち、ちりちりと火がついていく。火の粉が布に潜っていく。少しずつ布が赤みがかっていく。僕は両の手を合わせて祈った。どうか火がつきますように。すると煙の香りがして、テントの中が明るくなる。
 火打粉の入った瓶を棚へ置き、早速その紙に目を通す。
 全体的に薄暗い色だ。文字らしきものが囲みごとに羅列されている。長に見せてもらった本とはまた少し違うものな気がした。文字は僕には読めないからわからないけど、この辺りで見かけない形をしていた。
 文字以外にも、景色が幾つか描かれていた。ほとんど見たことがないものだったけど、一つだけ気になるものがあった。
 円い形、シミみたいな模様。この絵を見た覚えはなかったけど、なにか引っかかるものがあった。なんだろう、と思い出していると同じ絵の隅に建物らしきものがあるのを見つけた。比べるとその円は建物よりもはるかに大きい。
 そこで引っかかっていたことについて思い出した。彼と二人で遊んでいた夢描きだ。この円は、彼の夢の中に出てきたものととても似ている。
 けど、おかしいことがあった。僕と彼はこのスナヅツで生まれ育った。僕の一番古い記憶では二人ともここにいて、お互いに外へ出たことはないはずだった。
 それなのにどうして、夢の中にこの絵と同じ場所が出てきたんだろう。変な胸騒ぎがする。
 壁にかけてある彼との夢描きを見る。そこには確かに、この絵と同じ円のものが描かれている。思い違いじゃない。やっぱり彼は、この景色を夢で見ていた。
 生まれた時から一緒の褪せてくたくたな人形と、先程の紙を持つ。
 ここに手がかりがある。僕は力強くそう思った。
 行かなきゃいけない。きっとそこには、いなくなった僕の友達の手がかりがある。


 布袋から羽根を手に取る。スナヅツから外に出るのに使うなんて、普通じゃ考えられない。長や他の人からなんと言われるかわからない。
 そう思うと羽根を持つ手が震える。これを使ったら二度と同じ生活には戻れなくなる。もしかすると追放されてしまうかもしれない。それでもいいのか、と僕は僕に問いかける。
 その問いに羽根を握りしめる形で答える。怖い。でも、このままいなくなった友達を見つけられないのは嫌だった。
 羽根を振って飛ぼうとする。けどうまく行かず体は浮かばない。おかしい、いつもより重いからだろうか。
 確かにいつもより少しばかり重かった。人形、紙、そしてママの上着。この上着はパパとママがこのスナヅツへ来るときに着ていたものらしい。初めて着たけれどぴったりだった。厚手で袖がきゅっと締まっている。紫色で所々に白い糸のような装飾があった。夜はとても寒いから、もし外に出る時は必ずこれを着て出ていこうと昔から考えていた。
 羽根をまた何度か振る。浮かばない。今度は振りながらその場で跳んでみる。浮かばない。
 羽根のせいかと思った。羽根は使いすぎると浮かばなくなるらしい。それなら、たまたま僕が今手に持ったのが使いすぎたものだったのかもしれない。布袋にはまだもう一つ羽根があった。入れ替えてまた試してみる。
 羽根を振る。けど、浮かばない。
 どうして、と羽根を見る。見た所でなにか変わるわけがないのだけど、思わず見てしまう。心なしか羽根がへたっているように見える。僕が外に出ようとしているから浮かばせてくれないのか?
 気づけばスナヅツは暗くなっていた。暗いからまだ僕が外に出ようとしていることはバレていないけど、見つかって出られなくなるなんてことは避けたい。気持ちが焦ってくる。
 そう言えば、僕はさっき羽根を使って長の所まで行った。つまりさっきまでは羽根は使えたのだ。使っていた時はちゃんと浮かんでいた。
 どうして今だけ?
 やっぱり、僕を外に連れ出さないためなのだろうか。
 足の力が抜けていく。おとなしく帰るしかない、と思い始めていた。へたへた、とその場に座り込んでしまう。
 こんなことで諦めたくはなかった。あの紙はきっと僕になにかを伝えるために僕のもとへ来たんだ。羽根がうまく使えないだけで諦めるわけにいかなかった。
 両の手で羽根を挟む。祈りはきっと届く。僕に出来ることはこれしかなかった。
 僕は外に出たいんだ。そのためには、羽根の力が必要だ。
 僕の願いを聞いてほしい。外へ出るのを、助けてくれないか。
 しん、とスナヅツが静まり返る。汗が頬を伝って顎から手に落ちる。暑さが僕の周りを取り巻いているようで苦しい。けれど祈りは止めなかった。僕のこれからはこの羽根にかかっていた。
 手の中で伸びるような感覚。ゆっくりと手を開くと、そこには羽根がある。けどさっきと違うのは、毛の部分が膨らんでいることだ。ピンと先まで力強く伸びている。
 浮かべる気がした。僕は軽く二、三度羽根を振る。
 ――なにも変化はない。けど、少しずつ足先が地面から離れていく。両足で立っている時より不安で、爪先立ちしている時よりも安心――そんな感覚。両足が地面から離れる。良かった。羽根が、僕のために浮かせてくれた。
 僕は見上げてそのまま先を目指す。いつもみたいにゆっくり上がっていくやり方じゃ見つかってしまう。なにかいい方法はないか、と考えた時に脳裏をよぎったのは首長翼竜だった。
 長から何度か首長翼竜の絵を見せてもらったことがある。本当にその姿なのかはわからないけど、体に大きな翼がついていた。それを上下に動かすことで浮き、風に乗って移動するらしい。
 見たこともない、首長翼竜の飛ぶ姿を想像する。両腕を使って、空気をかきわける。小刻みに動かすんじゃなくて大きく動かしたほうがよく飛べる。僕は目指すべき頭上をしっかり見る。翼傘を掴むみたいに両手を伸ばす。そこから、体を引き上げるように両腕を使う。ごおっと、耳元で音が鳴って距離が縮まってくる。
 繰り返し両腕を使って進んでいく。順々に階層を上がっていっている。いつもより早い。もう翼傘まではすぐだった。
 翼傘と呼ばれるそれは、スナヅツに入ってくる陽の光を抑えるために作られたものだった。テントのように首長翼竜の尾につぎはぎの布をかぶせたものが、まるで翼に見えたと誰かが言ったから翼傘と呼ばれている。
 手前には長のテントがあった。少し前まで僕はあそこで長と労働について話し合っていた。そう言えば、結局答えられていないやとふと思った。
 するとテントがいきなり開いた。ふくよかな体型の――紛れもなく長が出てきた。僕はぎょっとする。
 そのまま翼傘まで向かえばいいのに、なぜだか僕は動けず長のことを見てしまっていた。僕の視線を感じたのか長がこちらを見る。怒っているんだろうな、と僕は思った。労働の話までしたのに、勝手にこのスナヅツを出ていくんだから。
 けど、長は少し悲しげな顔をしていた。暗くてはっきりとは見えなかったけど、僕にはなぜかそう見えた。
 そのまま長は両手を合わせて頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
 聞こえるはずがなかった。長と僕の距離はかなり離れている。けど不思議と、僕には長の声が聞こえた。
 思い出したのは隣の老人を首長翼竜の頭まで送る時のことだった。
 その次に、パパとママのことだ。夜中、お互いのことをくすぐりあって笑いあったことを思い出した。
 そして、いなくなってしまった僕の友人のこと。
 色々なことが脳裏を勢いよく過ぎっていく。足が砂に埋まってしまったみたいだ。ずぶずぶとのまれていき、周りには懐かしい思い出たちがいる。砂の中はほどよく温く、居心地がいい。このままいようかな、と思ってしまう。
 でも僕は行かなきゃいけなかった。這い出すように進む。砂が重い。僕の足首を掴んでくる。でも、しっかり膝を上げて進む。後ろは見ない。
 いってきます。溢れ出るものを拭わず、僕はスナヅツを後にする。


「描けたよ」彼がそう言って白布を渡してきた。得意げな表情だ、どうやら自信があるらしい。
 僕は白布を受け取ってまじまじ見ていく。分厚い布には絵が描かれていた。僕の見た夢を彼が描いてくれたのだ。僕らはこの遊びが好きで、夢描きと呼んで遊んでいた。
 白布には透き通るような白色の大きな虫が描かれていた。人の何倍も大きさがある。凶暴に牙を剥き、人を威嚇している。しっぽのあたりからは糸らしきものが人を呑み込もうかというほど出ていた。王宮のてっぺんに座っていて、まるでここはこの虫のものだなと思った。
「ぜんぜん違うよ」僕が言うと、彼は身を乗り出して突っかかってきた。
「なんで! 君が言う通りに描いたよ」
「でも、王宮のてっぺんには座ってなかったし、それにこんなに人を威嚇してもいなかったよ。もっと優しそうだった」
「でっかい虫だろ? 襲ってくるに決まってるじゃないか」
 しゃー、と両手を頭の位置に上げて威嚇してくる。僕はそれに苦く笑った。
 僕が見た夢では、羽の生えた大きな虫が人と一緒に暮らしていた。さっきの絵の通り、しっぽから糸は出ていたのだけれど、それは人を襲うためではなくどちらかと言えば人へ贈っているような感じだった。
「もう一度夢を思い出してよ」
「どうして」
「君のが間違ってるかもしれないから」
 その自信はどこから来るんだ。僕はびっくりしながらも、彼の自信に負けてしまい目を閉じて思い出していく。
 けれど上手く思い出せない。起きてから時間も経っていて、徐々に夢が僕から遠のいている。寝起きみたいにあらゆるものがぼやけている。
「ちょっと待って」彼は言った。「目を閉じたら、余計なことを考えるからダメなんだ。だから、どうしようもなく悩んだ時は上を見なきゃ」
 あれこれとうるさい。むっとしながら僕は彼へ聞き返した。
「そしたらどうなるの?」
「そしたら、きっと何か降ってくるさ」
「何かって何さ」そう言ってから、長の言っていたシズクの話を思い出した。
「そんなのわかんないよ」
 彼に言われるまま見上げるのはなんだか嫌だった。けれど、目を閉じていても思いつかないこともわかっていた。
 試しに僕は見上げてみる。ランタンの灯りが眩しくて目を閉じてしまい、彼の怒る声が隣から聞こえた。


 ざり、という音が口の中で鳴る。よくわからず、もごもごと反射的に口を動かす。次第にこれは口に入れちゃいけないというものだとわかり、僕は外へ吐き出した。ツバが口の中で広がって、ざりざりしたそれらを口から出そうとする。舌と口の動きで少しずつ出していくと僕はこの正体がわかった。砂だ。
 そこまでわかると次に手が動いた。力を込めようと握るとさらさらと手の間を何かが抜けていった。その感覚に僕は驚くけど、さっきの口の中の正体を思いだして少し落ち着く。どうやら砂の上にいるらしい。
 両腕を使って体を起こしていく。頬から砂がぱらぱらと落ち、そこで初めて僕はうつ伏せで倒れていたことに気づく。
 周りを見ると一面、砂ばかりだった。――不思議な気持ち。なんだか取り残されているような。
 そこでようやく僕は気づいた。そうだ、僕はスナヅツの外へ来たのだった。
 翼傘を越えた僕は外の光景に困惑した。とても狭いように見えた。絵のようだ、と僕は手をのばす。煙で満ちる頭上はのっぺりとして、掴めそうだと思った。けど、その煙はもこもこ動いており、そこで初めて外の広さというのをわかった。その広さがデタラメすぎて、おまけにいつもと違い浮いているわけだから、どこへ行けばいいのかもわからない。まずい、という胸騒ぎが頭の中を占める。そのままぐるぐると回ってしまい、気づけば砂の上だった。


「で、私があなたを見つけたと」
 ジェラルディンはそう言った。切れ長の目に出っ歯、灰色のサラサラ揺れる髪が彼をネズミのように思わせた。
「そうです」今日のことを話し終え、僕は大きく息を吐いた。こんなに長く喋るのはひどく久しぶりだった。
 ジェラルディンはたまたま僕が空から落ちるところを見ていたらしい。どうやら不思議に思ってわざわざ助けてくれたらしい。
 この帆車という乗り物は移動にとても便利そうだった。人が暮らせる程度の木箱の下、四つの輪が回って道を進む。風の力を帆と呼ばれる布が受けて勢いをつけるようだった。骨の道であるスナヅツでは必要なさそうだが、広い外では移動する間に寝られることもあり便利そうだ。
 帆車の中はさっぱりとしていた。床はキレイで所々にクッションが置かれている。壁にはギターと呼ばれる楽器が掛けられていて、珍しげに見ているとジェラルディンが教えてくれた。色々な街で彼はそれを使い音楽を披露しているらしい。木で出来た床に座る機会なんてないから、ついつい触ってしまう。ざらざらとしているけれど座り心地は良かった。なにより嗅いだことのない木の香りがとても素敵だった。
「実は、あなたに会えたのは偶然ではないと思っています」向かいに座るジェラルディンは外へ視線を向ける。「私は明日にでもスナヅツへ行く予定でした」
 その言葉を聞いて僕は身構えた。ここに至るまで、この男に僕は怪しさを覚えていた。表情がなく、こちらの話にも瞬きをするくらいで特に反応はない。なにか目的があって僕の話を聞いているように見えた。
「――何をするつもりですか」
「そこまで敵意を向けるようなものじゃありません。どちらかと言えば善い方向に向かえるものだと思っています」
 善い方向ってなんだ。僕は目の前の男を警戒し続ける。
 スナヅツというのは外の世界に比べ珍しい場所らしい。これも貨物隊から聞いた話だった。首長翼竜の骨が今なお埋まっていることがその最もな理由と聞いた。たまに骨を譲ってほしいとやってくる人もいる。
 そして僕は、目の前のジェラルディンが僕を差し出す代わりに骨を譲れと長へ脅しをかけるんじゃないかと思った。この男の言う善い方向というのはわからないが、その珍しい骨があれば少なくとも裕福になれることは僕でもわかった。
「人の心を辛さから解放させたいのです」
 ジェラルディンはそう言った。これまでと同じく、表情を変えず自慢気に言うでもなく、言い慣れていることをそのまま言っていた。
「どうやって」つい聞いてしまった。脳裏によぎるのは彼のことだった。
「説明が得意ではないのですが」そう前置きしてジェラルディンは少し口を閉じた。「私の目には、人の胸に穴が見えます」
 そう言われ僕は自分の胸元を見る。特に穴のようなものはない。触るけど凹みもない。
「あくまで、私が見えるものなので」
 思わず触ってしまったじゃないか。恥ずかしい。僕はジェラルディンを睨んだ。
「その穴は人の抱えている辛さを表しています。穴の形がいびつだったり欠けていたりすると、それらは癒えることなくずっと心に引っかかっているままになる」じっとジェラルディンは僕の目を見てくる。「それを私は直していくのです。言葉を語りかけ、そのいびつや欠けを整える。そうすれば綺麗な円になり、傷を負っても癒やしやすい」
「……それとスナヅツにどんな関係が?」
「あなたを前に言いにくい話にはなるのですが」そこでジェラルディンが僕から目を離した。「スナヅツは親のいない子が住む場所ですから」
 喉の奥が少し苦しい。僕らはみんなそのことをわかっているのだけど、改めてこう言われると胸を締め付けるものがあった。
 十五年生きてきて自分に親がいないことは理解しているつもりだ。周りにいる人もみんな親がいない。それでも生きていけている。
 ただ、親代わりの人はいた。僕の記憶にあるその人たちは、きっと親のいない子供をスナヅツへ渡す時の案内人みたいな人なんだろうけど、昔の僕はその人たちを親だと信じ込んでいた。スナヅツへ連れてこられ、しばらく三人でテントで暮らしていたらしい。その時のことはほとんど覚えていなかった。けどある日二人はいなくなっていて、代わりに長が説明をしにやってきた。僕が落ち込まないように、頑張って陽気に伝えていた姿をよく覚えている。
 僕らを例えるには『親のいない子』というのが簡単だろう。けど、僕らにとって親は確かにいたのだ。それが産みの親なのか、代わりの親なのかはわからない。
 僕にとって親がいないということを思い知らされることは、まるであの三人で過ごした楽しかった日が幻だったと突きつけられるのと同じことだった。それがとても苦しかった。
「私の話はこの辺にしましょう。足の具合はどうですか?」
 気を利かせてジェラルディンがそう言った。僕は右足を軽く揺らす。白い布で固定されていて動きにくいが、揺らしてもさっきほど痛くはない。布の内側にある塗り薬が効いているんだろう。両腕でやっと抱えられるぐらいの大きな箱を持って、薬を塗ってもらったことを思い出す。旅をするのにこんなに準備が必要なのだろうか。
「少し楽になってきました」
「それは良かった」相変わらず無表情のままだった。言葉と表情が合っていなくて、自分の耳を少し疑ってしまう。
 するとジェラルディンの視線が僕の腰辺りで止まった。目を細めて何かを見ている。
「それはなんですか?」
 腰紐に挟んであるのは人形と羽根と落ちてきた紙だった。しまった、と思った。僕は今首長翼竜の羽根を持っていた。
 治療のお礼に羽根をくれないか、と言ってくるのではないか。それにこの男は僕が空から落ちてくるのを見ていた。
 スナヅツは特別な場所、と長はよく言っていた。首長翼竜がいるというのもそうだけど、みんなで生活しているということだ。だから簡単に外の人を入れてはいけないという。僕らは弱く、日々を生活することしか出来ない。僕らよりも何倍も賢い大人がいたら、この特別な場所は壊れてしまうらしい。
 どうにか、羽根については話を逸らそう。僕のせいでスナヅツが壊れてしまうなんて嫌だった。それに僕は、あそこに戻るんだ。戻って、彼と今までみたいな生活をするんだ。
「これ、ですか?」
 意を決し、僕は人形を手に取った。恐る恐る掲げていく。人形は僕の気も知らず、手の中でぐったりしていた。
「それではないです」
 さっきと変わらない表情。いや、少しばかり視線が鋭くなった気がする。やっぱり狙いは羽根なのか。
 残るは二つ。羽根か、紙か。
 人形を太ももの上に置き、丸められた紙へ手をのばす。羽根が欲しいに決まっているので、ここで紙を出すのも意味のないことだった。
 けど、もしスナヅツを守りたい祈りが届いてここで何かが起きたら。僕はそれを待つしか出来なかった。
 紙を手に取り、目の前の男へ差し出す。
「これですか」
「そうです、それ」
「え?」
 つい、声が出てしまう。今自分が手に持っているのは紙だ。羽根じゃない。僕は今一度、持っているのが羽根じゃないことを確認する。もし、ここで間違って羽根を持っていたら大変だ。
 褪せた白色に布よりも薄い感触。間違いなく羽根ではなかった。
「珍しいものだったので気になってしまって」見せてもらえますか、とジェラルディンは言ってきた。僕は何が起きたかもわからず、けど羽根が目当てじゃなかったことがとりあえずわかってほっとした。ジェラルディンの質問に頷いた。
 ジェラルディンはその紙をまじまじと見ている。文字を読んでいるのだろうか。なかなかその紙から目を離さなかった。
「読めるんですか?」
「ええ。見たことのある文字なので」
「なにが書いてあるんでしょうか」
 そう聞くと、少しだけジェラルディンは紙から目を離し僕を見た。ふとそこで文字も読めない自分へ恥ずかしさを覚えたが、聞いてしまったのだから仕方がない。なかったことには出来ない。ジェラルディンの視線が僕をバカにしているように見えたが、負けずにじっと見返す。
「新聞というものをご存知でしょうか」
 聞き慣れない言葉だった。僕は首を横に振る。
「村のことについて定期的にお知らせするものです。誰々のお家に子供が出来ました、この前こんな生物を見かけましたとか、そんな内容です」
「それを僕が拾った、と」
「はい。恐らく、この辺りの地域の言葉ではないのでかなり風に乗ってきたのでしょう」
「はあ」と相槌を打つ。なにか聞きたいことがあるように思えたけど浮かばない。思い出しているうちにジェラルディンは紙に目を戻していた。
 紙の裏面が一瞬光ったように見えた。見間違いだろうか、と思ったけど少ししてまた光ったのが見えて驚く。僕はじっと裏面を見る。蓄光石の薄明かりで見えにくいけど、どうやらなにか模様があるらしい。近くで見た時は模様などなかったように思えたから、もしかすると光に反応するもので特別に作られているのかもしれない。ちらっと、バタフライのような模様があった気がした。
「あっ」と僕は聞きたかったことを思い出した。そうだ、新聞が読めるのならばあの円についてもなにか書いてあるんじゃないか?「聞きたいことがあるんですが」
「はい、なんでしょう」ジェラルディンはそう言って新聞をくるくると丸めて僕に視線を合わせてくれる。
「その新聞の絵について知りたいんですが、なにが書いてあるんですか?」
「いいですよ」ジェラルディンはにこりともせずそう言う。丸めた新聞を広げていく。「どの絵でしょうか」
「あの、円のやつです。友人の夢に出てきた光景と一緒で、きっとそこにいなくなった彼に繋がるなにかがあると思うんです」
 その円がなにか、どこにあるかがわかれば彼を追いかける手がかりになるはず。僕はつい身を乗り出してしまう。
「いなくなった、ですか」ジェラルディンは新聞を見るではなく、僕から視線を離さない。今までの無感情とは違う。ジェラルディンの視線に力がこもっているように感じた。「彼は本当にそこにいるんですか?」
 じりじりと何かが近づいてくるような感覚。僕もジェラルディンも動いていない。けど、誰かが、何かが、確実に近づいてきている。胸のあたりがざわざわとする。鳥肌が立つ。静かなこの部屋で、僕の心臓の音だけが大きい。
 僕は目の前のネズミから目が離せない。話題を変えたかった。けれど、近づいてくる何かが気になってしまって動けない。口を動かすことさえ出来ない。
 目は動きそうだった。逸らして、瞑ってしまいたい気持ちが大きくなる。ただ、目だけは離してやるものかと思った。ここで目線を逸らしたら、ジェラルディンから絵のことについてもう聞けなくなる気がした。
「聞きますが」
 ジェラルディンが宣言する。本能的にわかった。この言葉は聞かないほうがいい、と。足は動かない、この部屋には僕とジェラルディンの二人きり。耳をふさごうか。そう思うが、脳裏に過ぎるものがあった。
 彼との約束だった。
「あなたの友人は死んでいるんじゃないのですか?」
 なんだそれは。死、というのは聞いたことのない言葉だった。よくわからず、どういう意味かを聞こうとした。その時だった。
 さっきの近づいてくる感覚が来た。じわじわとじゃない。急に後ろに、だ。足元に突然穴が空いて、浮く。見なくてもわかる。真下は暗闇だ。落ちればここへは戻ってこられない。怖い、そのことが怖い。
 けど、初めて味わう感覚じゃなかった。そのことに気づき、ほんの少しだけ楽になる。両手を握って、力を振り絞り僕は口を開いた。これは言わないといけなかった。
「……彼はいます」手のひらをぐっと握る。お腹から絞り出すように声を出す。本当は怖い、ここから逃げ出したい。
 ジェラルディンは目を見開いた。驚いているんだろうか。すぐに元の無表情へ戻ってしまったため、見間違いかもしれなかったけど、あの驚き顔は印象に残った。一瞬だけれど、目の前の男の表情を変えられたことに僕は少しばかりの達成感を覚えた。
「死、というのは魂がこの世から無くなることです」
 当たり前のようにジェラルディンは顔色変えずに言った。言っていることがよくわからない。魂というのが何を指すのかもわからないけど、人というのはいなくならない。それが僕にとっての当たり前だった。
「……なくならない」
「そうですか」あっさりと目の前の男は言う。話が終わる予感がした。何故かほっとしている自分がいたが、どこかでなんとか話を繋げなければと思う自分もいた。「一旦、私があなたを助けた話をしましょう」
 ジェラルディンは二、三度咳払いをして話し出す。この男は表情が少なく、あまり喋らなさそうに見えて意外と喋る。よくわからない。
「さきほどお話したとおり、明日スナヅツへ向かうため私は周辺で野営をしていました。たまたま空を見ていた時のことです。スナヅツからふわっと誰かが出てきました。正直驚きました。スナヅツから人が出るのは近くのカイコウ村から物資を貰うときだけと聞いたので」
 その通りだった。スナヅツはカイコウ村から衣服を引き取る代わりに物資を貰っていた。カイコウ村は衣服が溢れるほどあり、その処分先として手を上げたのがスナヅツだった。長が言うには、衣服を作る糸がものすごくあり衣服を作り続けないと糸で村が埋まってしまうようだった。
「スナヅツから出てきたあなたは一旦空中で止まり、その後落ちていってしまった」
「外が広くてびっくりしてしまったんです。どこに行けばいいかわからなくて」ジェラルディンの言葉を遮って言う。どうしてそんなことを言おうと思ったのかわからない。何故か言わずにはいられなかった。
「いえ、あれは違う」ジェラルディンは珍しく強い口調でそう言った。びっくりして僕は目を見張る。「進むべき場所があなたにはあったはずです。それなのに落ちてしまった理由。それは、行き先が上にないことを知っていたからじゃないですか?」
 ジェラルディンの言葉に胸の鼓動が早くなる。どうして、どうしてそう思うんだ。
「あなたは友人がいる場所を感づいていた。でも、行く勇気がなかった」
 スナヅツ中を探したけれど、彼は見つからなかった。みんな言うことは同じだった。きっと彼は行ってしまったんだよ、と。そんなはずがなかった。約束をしていたんだ。二人で行こうって。
「そのことに目を逸らしながらあなたは生きてきた。そして今日を迎える」
 今日は、僕の十四才の最後の日だった。明日からはスナヅツで労働をすることになる。
 どうしても諦められないことがあった。他の人から見ればそれは大したことじゃないのかもしれない。でも僕は彼がいなくなってからも忘れられなかった。僕がしたい労働は一つしかなかった。
「あなたはスナヅツから逃げたかった。幸い、夢の中に出てきた景色があなたの手元にはある。ただ偶然新聞が空から落ちてきて、そこには夢の中の景色と同じものが描かれていた。偶然じゃない、と思ったあなたはそこに行くと決めた」
 ジェラルディンは一旦言葉を止めた。じっとお互いに向き合う形になる。目の前の男は僕の言葉を待っているように見える。まだ、僕は答えられない。話すか、話すまいか。心の中は揺れている。
「逃げるのに選んだ日は今日だった。それはあなたがスナヅツから自由になれる最後の日。これからは労働により逃げられなくなってしまうから。――いや、それだけじゃない。約束を守れなかったから、あなたはスナヅツを出たんじゃないんですか?」
 違う、待っていたんだ。戻ってくると祈り、祈り、祈り続けて。けど、戻ってこなかった。だから僕が探しに向かうしかなかった。
「あなたへ問います。あなたが友人と交わした約束はなんですか?」
 彼との約束。二人しか知らない約束。それを僕は、初めて誰かへ言う。
「二人でスナヅツの底へ行こう」


 どうして僕のことをそんなに聞くのか、と尋ねるとジェラルディンは「スナヅツから飛び出してきた人の話を聞けるなんて珍しいからですよ」と言った。僕は苦く笑った。
 目の前の男が「あなたが善い方向へ行けるように」と答えるものならば僕はこれまでのことを喋らなかっただろう。
 けれど、僕に興味があって話を聞きたいのなら話そうと思った。それに足の治療もしてくれた。でも、僕の話でジェラルディンが喜んでくれるのかは少し不安ではあった。
 ――まずは彼のことについて話さないといけなかった。
「彼は僕の唯一の友人です。短髪で砂よりも明るい黄色、瞳が大きくてそばかすがよく目立っていました。物心ついた時から側にいて、ずっと一緒にいた気がします。もちろん喧嘩もしました。でも翌日には仲直りをして、またずっと一緒にいました」
 彼はよく髪を切られたがった。髪を切るハサミは危険なものだからと長のところにしか無く、彼が髪を切りたい時は決まって長のところに行ってハサミを借りた。長は切るのが下手だったから、彼の髪を切るのは僕の担当だった。
 風が髪の中を通るのが好きとよく言っていた。あまり髪を切らない僕にはその彼の気持ちがよくわからなかった。代わりに切らせてほしい、と彼はよく言ってきたが僕はいつもそれを断った。伸びている分がもったいない気がしたのと、人形とおそろいじゃなくなるのが嫌だったからだ。
 けど断られるのが嫌だったようで、切らせて欲しい彼と切らせたくない僕とでよく喧嘩をした。僕はその喧嘩では一度も折れず、彼に毎回謝らせていた。彼へ、人形と同じ髪型がいいからと言うのはなんだか恥ずかしかった。
「彼と約束をしたのは長からシズク――落下物の話を聞いた時でした。上から落ちてきたものを手に取った時、願い事をすれば叶う。僕らはその時約束をしました。二人でスナヅツの底を見に行こうと」
 首長翼竜の目指した先に何があるのかを毎日のように僕らは話していた。今思えばすぐに飽きてしまいそうなのに、よく楽しげに毎日喋っていたなと思う。互いに想像したことを話し合うのが楽しかったことをよく覚えている。
 けれども、どれだけ長へ言ってもスナヅツの底へは行かせないと言われてしまった。それは僕らだけじゃなく、スナヅツの人みんなに言っているらしい。
 でも僕らは諦めきれなかった。何度も長へ尋ねると、ついに長は本当のことを教えてくれた。
 僕らよりも遥かに大きい首長翼竜が、スナヅツの底へ行って地上へ戻ってこられなかった。だから、下へ行くのは勧められない。
 その時の僕たちは長の言葉に納得した。首長翼竜よりも小さな僕らが行って帰ってこられるとは思えなかった。
「ただ、二人でスナヅツの底へ行くには長を納得させなければいけませんでした。だから大きくなるしかなかった。十五歳という労働が始まるその日に、スナヅツのために二人で向かおうと」僕らが長に掛け合ったとして許してもらえるかはわからない。それでも、僕らが子供ではなくなる十五歳――労働が始まるその日を迎えれば何かが変わるんじゃないかと思った。
「なるほど」ジェラルディンの顔を見ると、先程と変わらず無表情でこちらを見ているものだからびっくりしてしまう。「あなたの話はわかりました。ありがとうございます」
 僕はいきなりお礼を言われて、どう返答すればよくわからず頷いた。ただ話をしただけで、そこまでお礼を言われることではない。誰にも言っていないことを話したけれど、この人はスナヅツの人間じゃないからそれほど気にしていなかった。
「話をもとに戻してもよいですか?」
「戻す、ですか」
 戻す話なんてあったか、とジェラルディンとの会話を遡っていく。しかし僕が見つけるよりも先に男は僕に対して答えを言った。
「あなたの友人についてです。今回の旅の目的は友人を探すことのはず。しかしあなたは友人がどこにいるか感づいている。……違いますか?」
 思い出してしまった。死、という知らない言葉。足の力が急に抜けて浮かぶような感覚がまた襲ってくる。視界が暗い。ただ、さっきほどの恐怖は感じない。何かまでは思い出せないが、似たような感覚を知っていた。
 スナヅツの底だ。みんなは怖くないと言うが、僕はあそこがとても怖い。昔は僕もみんなと同じように怖くないと思っていた。
 けど、その考えが変わったのは彼がいなくなったときだった。
 彼がいついなくなったのか知る人はいなかった。誰にも声をかけずにいなくなったのだ。親友である僕に対しても、だ。
 布袋の羽根もなくなっていなかったらしい。そのことから彼は足を滑らせて落ちてしまったとみんなは思った。僕もそう思ったのだ、その時は。
 彼がスナヅツの底を見られるよう、みんなで祈った。そして僕は彼が落ちてしまった場所を見る。そこは真っ暗で何も見えない。こんなに大きな首長翼竜の骨さえ飲み込んでいる。ぞっとした。
 ここに落ちたら帰ってこられないんじゃないか。
 どうしてか僕はそう思ってしまった。今までずっと、祈りさえあればすべてが叶うと信じてきた。そのことが、この暗闇を前にして信じられなくなってしまった。
 だから僕は、彼はここに落ちていないと言い張った。きっと外に出たんだ、と。どうやって出たかも、どうして出たかも関係ない。彼が生きていると僕が信じるためには、外に出たと思い込むしかなかった。
 ジェラルディンはじっとこっちを見ている。僕の言葉を待っているんだろう。でも、このことに関しては話したくなかった。いや、話せなかった。
 目線を逸らすために僕は見上げた。話題をなにか変えるしかない。けれど何も思い浮かばなかった。天井を見るけれど良さそうな話題はない。蓄光石が変わらずちりちりと光っているだけだ。
 困った時に見上げるのは僕の癖だった。ずっと昔からじゃない。いつからだっけ、と思い返す。
「目を閉じたら、余計なことを考えるからダメなんだ。だから、どうしようもなく悩んだ時は上を見なきゃ」
 彼の言葉だった。いつのことかは思い出せない。だけど確か、夢描きをしていた時のことだった。夢を思い出せない僕に、彼はそう言ってくれた。
「そしたらどうなるの?」
「そしたら、きっと何か降ってくるさ」
 ――そうだった。僕はずっと待っているのだ。彼がいなくなってから、ずっと。
 でも、待っても帰ってこないから探しに向かった。だったら、天井を見上げて待っている暇なんてない。そのことに気付かされる。
 認めるしかない。彼がどこにいるか。僕がどこに向かわないといけないか。
 僕は強い思いを持ってジェラルディンへ向き直る。進むしかない。
 息を吸い込んでしっかりと言う。戻ってくることばかりを祈っていた僕を吹き飛ばすように。
「――スナヅツの下にいます」
 言ってしまった、という後悔があった。これでスナヅツの全員が、彼がスナヅツの底にいると思っている。再びあの暗闇を思い出し、ぞっとする。
 でも、これで僕は迷いがなくなった。彼は外になんて行っておらず、スナヅツの底へ落ちていってしまった。ならそこへ迎えに行くしかない。道はそれしかない。
「死んでいるかもしれないのに、ですか?」
「彼はいます。僕はずっと祈っていましたから」
「なるほど、首長翼竜が向かった先にいるのですか……」
 ジェラルディンが頷きながらそう言う。言われてから、もしかすると嫌味を言っていたのかと思った。ただ、ジェラルディンの言葉は僕が言ったことを自分に対して言い聞かせるみたいで、嫌味を言われているような気はしなかった。顔を見てみるけど無表情のネズミ顔があるだけだ。嫌味を言うにしても、無表情のままで言わないだろう。
「あなたは、首長翼竜がどうして砂の底へ向かったと思いますか?」
 ジェラルディンの言葉に僕は少し動揺する。何にも感じなさそうな目の前の男が首長翼竜の向かった目的について気になっているというのは少しびっくりだ。
 けれど、首長翼竜がスナヅツの底へ向かった理由は、考えたことは何度もあっても自分の中で答えを見つけたことはなかった。何かを探しに行ったんだろうとは思うけど、それがなんなのかはわからない。
「何かを探しに行ったんじゃないでしょうか」
 するとジェラルディンは、また目を見開きまじまじと僕を見た。やっぱり見間違いじゃなかった、と思った僕は珍しいその姿をまじまじと見返す。
「わたしは違うんです」ジェラルディンはそう言い、少し俯いた。腕を組んで考え込むようにする。「何かを守りに行ったんじゃないかと思うんです」
「守りに、ですか?」
 そんなこと聞いたことがなかったし、考えたこともなかった。初めて聞く話に胸が躍り、身を乗り出す。
「ええ。首長翼竜は空を飛んでいたと聞きます。そんな生物がどうして砂の底へ潜ったのか――もちろん、何かを探しに行ったのかもしれません。けど、砂の底にあるものが首長翼竜に必要だとはわたしは思えないんです。きっと彼らは砂の底へ潜らなくても生活できる。それなのに砂の底へ向かったのはきっと、自分たちの生活が脅かされるからじゃないかな、と」
 僕は想像する。
 首長翼竜が砂に潜っていく姿を。
 必死になって砂を掘って進んでいく。
 何に向かっているのかはわからない。
 どうして向かったのかもわからない。
 けれど、ジェラルディンの言葉を聞いて必死になって砂の底へ向かう首長翼竜の姿が浮かんだ。
「あ、晴れてきましたね」
 ジェラルディンはそう言って外を見る。内側から留め具を外して、高い位置にある小さな扉を開ける。人が出入りするほど大きくなく、ただ景色を見るためだけの扉のようだった。
 外が気になり、足を引きずりながら近づく。晴れてきたというのは、先程の煙が消えたということだろうか。
 扉に手をかけ、外を見る。そこには探していた景色があった。
「そう言えば、新聞について言い忘れていたのですが」後ろでジェラルディンが話し出す。僕は目の前の光景から目を離せず、返事もできない。
 初めて見るその光景をきっと僕は忘れないだろう。何度も二人で描き直したあの日を思い出す。悔しいのは隣に彼がいないことだ。この感動を、僕は彼と語り合いたかった。
 ジェラルディンがまた話し出す。ぼんやりとしか聞こえないけれど、一部分――その名前だけは聞き取れた。
 円い形、シミみたいな模様。
 どうやらこれは、月と言うらしい。
 

 あと少し、もう少しをずっと繰り返していた。月が出ている空はしばらく見られない。そう思うとついここから動けなくなってしまう。
 透き通る紺色が空一面に広がり、優しく見下ろすかのように月が砂漠を照らしていた。僕の覚えている記憶では、スナヅツへ来る前のものはない。昔の僕はこの景色を見ていたんだろうか。だったら覚えていてほしかった。この景色を忘れたまま過ごす十五年間は、ちょっともったいない。
 ジェラルディンは僕が帆車から出る時に少しだけ言葉を教えてくれた。この透き通る紺色を空と言い、僕が座っているこの一面の砂を砂漠と言うようだ。長から色々と教えてもらっていたけれど、知らないことも多いのだなと思わされた。色々と知りたいと思ったし、彼にも色々と教えてあげたいと思った。きっと彼の見ていた夢が、こんな間近で見られるだなんて思ってもいないはずだ。
 ジェラルディンと言えば、最後に「嘘をついていました」とあっさりあの真顔で言ってきた。
「え?」と僕は動揺した。ジョークを言っているようには見えなかった。
「あなたから話を聞く時に、スナヅツから出てきた人の話を聞けるのは珍しいからと言いましたが、本当はあなたの進む道のアドバイスをしたかったのです」
「はあ」なんと言えばいいのかわからない。今の僕にとってはもう過ぎたことだった。けれど、このネズミに嘘をつかれたのは少し腹がたった。
「勝手に親近感を覚えていました」沈んだ顔をする。本当は表情を出すのが苦手なのかもしれない、とふと思った。「私は約束を守れなかったのです。医者になるという約束を」
 僕を治療したときの大きな箱を思い出す。昔、医者になろうとした時に揃えたものなんだろう。
「失礼しました、それでは」
 そう言ってジェラルディンはぷいっと帆車に戻ってしまう。僕もスナヅツへ戻ろうと思ったけれど、表情なく喋るあのジェラルディンの見せる沈んだ顔が頭から離れない。
「あの!」気づけば声をかけていた。ジェラルディンが振り返る。「お互いのこれからについて祈りませんか?」
 少し間が空いて「ええ」とぎこちなく返事をされた。
 僕が人形を出すと、ジェラルディンは困ったように周りを見やった。僕はそれに「思い入れのあるものならなんでもいいですよ」と言うと、ジェラルディンはギターを持ってきた。ちょっとだけ歌は聞いてみたかったけど、僕がお願いするのはなんだか恥ずかしかった。
 砂漠に人形とギターを置く。一呼吸置いて、僕らは目を閉じて手を合わせた。
 僕はジェラルディンが多くの人を善い方向へ向かわせられるように祈った。ジェラルディンはなにを祈ったのだろうか。聞きたい気持ちもあったけれど、僕はぐっと抑える。それはまた会った時に聞こう。僕がスナヅツの外へ出たときか、それともまたジェラルディンがスナヅツへ来てくれた時か。
 ざっ、ざっ、と砂を踏む音がした。僕は座ったままだ。音の方を見る。
「やあ」穏やかな顔で長が手を上げた。
「どうも」驚きつつも、僕も手を上げる。
 ここいいかい、と長は僕の隣に来た。何がなんだかわからずとりあえず頷く。どしん、と大きな音を立てて長が座った。
 どうして長がここにいるんだ。ゆっくり長の方を見る。
 見慣れたぼけっとした顔で月を見ている。いつもの長だった。
 そう言えば、長と横に座って話す時はいつも何かを教えてもらう時だった。長が僕と同じくらいの年の子を集めて、長の部屋でいろんな話を聞くのだ。それは首長翼竜の話だったり、砂漠に住む虫のことだったり。年を取ると大体みんな長の話をつまらないと言って行かなくなるのだけど、僕と彼は違った。長から呼ばれれば行くし、暇な時は長の部屋によく行った。大体忙しいからと返されるのだけど、たまに話をしてくれた。長、僕、彼の三人の時は長の部屋のソファで横並びになって僕らは話を聞いた。
「行くのかい」
 長は今までの僕のすべてを見通すみたいに言った。驚いたけれど、声が怒ってなかったことが僕としては安心した。
 勝手に外へ出て、それなのに戻ってきて。僕は怒られるんじゃないかと思っていた。
「……はい、行きます」
僕はそう答える。そう言ってから、心の隅にあった不安がぽつりぽつりと大きくなっていく。
 彼はスナヅツの底にいるはずだ。僕は今から彼を迎えに行くけれど、戻ってこられるのかという気持ちがあった。
 彼を迎えに行くのにどれくらいかかるかわからない。帰ってこられるのもどれくらいかかるかわからない。
 大きなものに頼りたくなる。つい長を見てしまうが、この話をして迷惑をかけたくなかった。
 僕は月を見た。紺のシルクに浮かぶ、大きな円。月の光は何も言わず僕を照らす。僕の心を動かしたそれをじっと見つめるけど、一向に助けてくれそうにない。
 どうしよう。大きくなる不安は抱えきれなくなり、握り拳より少し小さいそれが胸から喉を通り口から漏れそうになる。
「どうして首長翼竜の骨は崩れないんだと思う?」
 長は突然そう言った。いきなりのことでびっくりし、漏れそうになった不安がすっと胸まで戻っていく。
「骨っていうのはあんなにくっついてないんだよ。普通は離れちゃうの。でも、スナヅツの骨はくっついているでしょ?」
 骨というのをあまり見たことがなかった。たまに何かの生き物の骨がスナヅツの壁から出て落ちてくるのを見ることがあるけど、近くで見たことはない。僕は「そうなんですか」と返事をした。
「うん。これは絶対そうだって言えるんだけど、僕らのスナヅツで暮らしたいっていう祈りが首長翼竜に届いているんだよ」
「僕らの祈りが、ですか?」
「そうさ。祈りは叶うもの。誰かがスナヅツで暮らしたいと思えば、この首長翼竜はその願いを叶えてくれるのさ」
「絶対、ですか」
「そう。絶対」
 振り返り、スナヅツを覗き込む。
 太く僕らを支える首長翼竜の骨が見えない底までずっと続いている。こんなに大きい首長翼竜が、僕らの祈りなんかを聞いてくれているんだろうかと思う。
 けれど、もし僕らの祈りが届いているとしたらそれはちょっと嬉しいかもしれない。ちっぽけな僕らを助けるために、首長翼竜は今もなお頑張ってくれている。
 ――進まなきゃ。
 不安はもうどこかへ行ってしまっていた。僕のことだからどうせ、少ししたらまた不安がぽつぽつと大きくなってしまうはずだ。だったら、今のうちにさっと行ってしまった方がいい。僕はよく逃げがちだ。
 ゆっくりと立ち上がる。右足は少し痛むので、両手と左足を使う。倒れそうになりながらも、なんとか立つことが出来た。長を見ると中腰になって僕を見ていた。僕を助けようとしてくれていたんだろうけど、その姿が愉快で肩の力が抜けた。
「それと、これ持ってきなさい」
 長は腰紐にぶら下げていた筒状になっている白いそれを僕へ手渡した。受け取り、まじまじと見る。筒は二つあって重い。傾けるとちゃぽちゃぽと音がした。
「首長翼竜の骨で作った水筒だよ。中には水が入ってるから、二人で飲んで」
 これを届けるためにここまで来てくれたんだ。長の優しさに、僕は目が潤む。
「ありがとうございます」というと、長はいつもののんきな笑みで返した。
 もう、行かないといけない。長と喋っている時間は楽しいけれど、彼を迎えに行かなければいけなかった。
長に挨拶するにあたってなんと言えばいいか迷った。おはよう、こんにちは、さようなら。会う時と帰る時の挨拶は知っていたけど、どこかへ向かう時に使う挨拶は知らなかった。
 早くしないと。また僕の中の不安が顔を出してしまう。悩んでいると、はっと思いつくものがあった。
「帰ってきます」そう言うと、長は笑った。
「待っているよ」僕はその言葉に笑い返す。
 約束をした。
 僕らはお互いにそれが叶うようどちらからともなく祈った。目を閉じて手を合わせる。
 祈り終えて目を開けると、まだ長は祈ってくれていた。目が開くのを待とうかとも思ったけど先に行くことにした。もう挨拶は済んだ。だったら彼を迎えに行かなきゃ。
 腰紐から羽根を取り出して振る。僕の体は浮き、そのままスナヅツへ向かう。
 横目で夜空と月を見る。もう少しこの綺麗な景色を見ていたかったけど、いつまでも見ているわけにはいかない。
 スナヅツへ入っていった。夜だからか底がいつもより暗く見える。やっぱり怖い。
 でも、僕には祈りがあった。
 ――ジェラルディンは彼が死んでいるかもしれないと言った。それがなんだ。僕は彼がいなくなってからずっと、無事に戻れるよう祈っていたんだ。
 暗闇に飛び込む。月があったんだから、僕らが他に見た夢も実は外にあるんじゃないか。そんなことを考え、僕と彼の夢描きを思い出していく。暗闇を進む間、しばらくは退屈しなさそうだった。


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